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犬大丈夫9

​北向山霊験記戸隠山鬼女紅葉退治之傳全

日程・会場 2019.11.29-12.2(全5ステージ)    早稲田小劇場どらま館

原作    斎藤一柏、関衣川

      アーバン野蛮人の人

                     戒田優衣

                     小坂井阿門

               高木あさえ

                     萩原涼太

                     半田大介

                     平野光代

                     ヒラザワタケル(ふわふわ中毒)

                     増田悠梨

※11月30日19:00の回と12月1日19:00の回は終演後アフタートーク有

 ゲスト

  11月30日19:00 渡並航(俳優)

  12月1日 19:00 黒木洋平(亜人間都市主宰)

読書感想文だけど、劇についても少しだけ書きます。

まずこの本を読んだとき、鬼がどこに出てくるのかわからなかった。

序文には、「世間紅葉が伝説甚だ異同ありて更らに據るべきなしと雖も今其国にありて実際其事を伝ふる正説を纂輯して梓に上ぼせ以て童蒙の勧善に備ふとしか云」とある。成り立ちとしては、長野戸隠周辺地域において、室町から流布している「鬼女紅葉伝説」という、女の鬼が登場する口承物語が、能や歌舞伎のモチーフになったり、各地域ごとに異同があったりして増えすぎた説を、明治ごろにこれが正史であるといってまとめたもの。

古文はかなり易しく、謡曲のように一定の調があるので戯曲にもなりやすいと思ったけど、肝心の鬼についてどこに書いてあるのかわからない。

ところでさっき女の鬼と書いたが、生物学的に考えるなら、正しくは雌の鬼である。人間以外の動物を、「女の犬」とか「女の猿」とかは言わない。だから鬼も、生物学の延長線上にある鬼として考えるなら、「雌鬼の紅葉」となるが、当然そうなる方が違和感があり、つまり誰も、鬼というものを生物学的に捉えていない。これが正しい説ですって言ってる斎藤・関も、まさか鬼なんてものが実在すると思っていない。実録的に、あたかもその場に居合わせたかのような描写もあるが、実際鬼を見たことあるわけがなく、当然これは小説の類である。

それなら、鬼は、「女」の方にかかってくる。つまり、「鬼の女」。「鬼」は、「女」を修飾する語になる。

いや、そうではない。誰も鬼を、男女だ、人間だ、とか従順にイメージしてなくて、単なる戯画だ。そう考えるのが普通か?

本当にそう考えられるのか? 人間と鬼は双生児のようなものではないか? 人間の別ヴァージョンではないか?

そのへんを捉えるものが北向山霊験記になんかあるかな、と思ったが、ない。これを読んでも鬼については今一つわからない。「朝廷に対する悪」とかはいける。人間よりもパワーを持つ存在、であることも明確。

しかし、鬼の定義は曖昧だ。なぜ神ではいけないのか。悪霊や狐狸ではいけないのか。

煩雑なのは、「正説を纂輯し」と謳いながら、それまであまりポピュラーではない、会津での鬼の誕生を採用しているところ。北向山霊験記以前の、紅葉狩を始めとする紅葉伝説の多くは、既に鬼が村里に影響を及ぼしている存在であるところから始まる場合が多く、鬼の出自、正体については描かれることは少ない。北向山霊験記は、子どものできない夫婦が、第六天魔王に祈るところから書かれている。

平安、室町の異常出生譚では、「子どもができるない夫婦が(何かに祈り)、特殊な力を持つ子供を授かる」というくだりがよくある。桃太郎も、「昔々あるところに、おじいさんとおばあさんがいました。おじいさんは山へ芝刈りに、おばあさんは川で洗濯をしていると~」という有名なフレーズで現在でも口承されるが、江戸時代に文献になった桃太郎の多くに、子どものいない夫婦が祈る、というくだりがガッツリ含まれている。

(おじゃる丸とかも、その変形である)。

北向山霊験記もその例に漏れず、様々な神社仏閣に祈った夫が、ある人から第六天魔王に祈れば必ず験があると聞き祈り、その夫婦が授かった子が、のちの鬼女紅葉となる。

鬼の生誕をわざわざ取り入れ、人間的生活、家族的な構成単位を鬼に投影しているのは斬新で、ああこれめっちゃいいなあと思ったんだけど、読んでみると、悲劇的なモチーフをあえて避けているようにも見え、いやもちろん、これは正確な小説じゃないし、この時代(以前も)の話なら複雑な心理や自然科学が省かれることは気にならない。そんな馬鹿なことを気にしてはいない。単なる戯画だというなら、あまりにも線引きがなさすぎる。鬼らしくないし、人間でもない。紅葉狩りの方がよっぽど鬼としてわかりやすい。また、鬼でありながら人間的一面を持つ苦悩もない。鬼は鬼、人間は人間と、場面ごとにきちんと分断され、それが交じり合うことは決してない。

戯曲だと考える。肝心なところは抜いている。一身に鬼と人間との心を持つ女を、俳優の演技に委ねている。昭和の日本文学のように繊細な心理描写を記述してない分、戯曲としてのポテンシャルは高い。

それでいいのか、、、noだと思う。整理するためだけに上演したいのか、半身の鬼の演技を俳優が演じるのを見たいだけか。絶対に違う。



今、演技について考えていること。正確な演技がしたい。見たい。依存する(なんとなくしちゃう)演技は見たくない。

日本で見え透いた嘘をつくと、「それ演技でしょ?」「お芝居でしょ?」と言われる。海外ではあまり言わない。

日本でお芝居をすることは、すごくスッタニパータか、それとも社会の上澄みかのどちらかである。

(我々のような草の根が)なにカミサマの真似しちゃってんの?

あるいは、演劇と言えば、帝劇やドサ廻りのイメージが鮮烈で、仰々しくて、普段の人格から誇張しすぎてて、とにかく共同体の中でハミ出すような、ありえない性格は、やめてくれ。と言われる。

演技はもはや嘘をつくことではない。嘘も、本当も全部演技で、ただ周りと違う演技をすることにすごく敏感な資本主義優位社会で、会社はメンバー数がそのまま生産力になるので周りの演技と大きく差が出ることは得策ではなく、学校でも人間は無条件で平等であることを教えるためにやはり出過ぎた演技は拒まれる。

だから、あまりにも優しすぎる性格は、「それは違うよね?」と言われる。嘘だと言われる。

世の中に嘘はない。事実と違うことをしている人も、その人がそうだと言うなら、その人の世界観ではそれが事実であるのだし、そこに寄り添えなければ、やっぱり嘘としてしか処理できない。

なんとなく周りと似ている演技をして楽しいのか? 嘘か真実か分け隔てなく、差別をなくすことが演劇の役目であると思う。

(それぞれが依存することなく、独立した演技をしている状態はとても気持ちがいいものだと思う)

ある人を許すか、憎む。彼、彼女にされたことは、酷いことでとても許せないが、そういえばこの人は昔こんなによくしてくれた、元気を貰える言葉を送ってくれた。そう考えるとやはり許すべきなのか。と、迷うことがあるかもしれない。その場合、嘘・事実の二分化はどうしても生きづらい。

「憎みながら許す」「許しながら憎む」と、まったく別のキャラクターを同居させながら、演技を作る能力は、いや、もはや、それは勇気だと思う。周りと違う演技をすることはすごく恥ずかしいことで、笑いながらじゃないと「やめて」と言えなかったり、相手にとって大切な話を伝えるときも無表情にならないといけなかったり、演技の殺し合いをしている。

だから、鬼と人間を全く別に演じることも可能であり、それはとても素敵なことなのだ。

そういえば鬼と言えば、酒、みたいなイメージがある。真っ赤な杯を高笑いしながら飲み干す鬼の姿は想像しやすい。

北向山霊験記の鬼も、酒を飲む。僕が一番好きな場面。戦いの最中、能力が使えなくなって病気だと思った紅葉は、寒気がするから温まると酒を飲み、油断して眠ってしまう。かわいすぎる。

酒を飲むことも、違う人格を持つことが許されるきっかけだ。それを可愛らしさと感じるか、品性がないと感じるかは、本当に、人それぞれだと思う。

 

2019.11.18小坂井阿門(Tumblrの読書感想文より)

​アフタートーク

11月30日19:00 アフタートーク ゲスト:渡並航

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